それで終わりじゃないでしょ

はらぺこあおむしのごとき私の齧り跡を並べています

Facebookを辞めてみた

また変な話を書いちゃいます。


2ヶ月前くらいだろうか??
私はFacebookを辞めました。
アカウントをスパっと消去しました。

ホントはずっと辞めようか悩んでいて。

更新する人ってけっこう決まっているし、
自己啓発系の話題にも興味が持てないし、
「いいね」しないとなんか悪い?みたいなよくわかんない気を使ったりしちゃうし、
この人今メンタル辛いのか…みたいな情報がひゅんひゅん見えてしまって、
それに対して“素直に思いやれる優しい人“になれない自分も見えてしまって。

でも気がつくと無為に眺めちゃうし、
後で恥ずかしいとわかっていても、かまってほしくてつい投稿しちゃうし、
ちゃっかり自分だけかまってもらったりしちゃうし、
そのくせスルーされたなぁとか思っちゃったりもしちゃうし。


ホントに聞いて欲しいことをホントに聞いて欲しい人に直接話せばいいのだから、
直球の「私の話聞いて!」を避けて成立しているFacebookでのコミュニケーションは、どこか不健全に思えて。

なのに、それなのに、
もやもやしながらFacebookを辞めるに辞められないのはなんでだろう??と考えていて

出てきた答えは
「私が死んだ事を知って欲しいから」だった。



私は死ぬことが怖いとは思わない。
私が怖いのは、“私が死んだ事に誰も気づかない“こと。

別に悲しんで欲しいわけじゃないのだけど、
「ああ、**という人間が居たなぁ、そして、死んだんだなぁ。」と、思ってくれればそれでよくて、
そして、私が死んだ時に、そう思う人が誰もいなかったら…
私の死に誰も気づかなかったら…
私という人間がホントに存在したのかどうかわからない気がしてしまって、
それがとても怖かったのです。


Facebookをやっていたら、死んだ時、夫にお知らせをしてもらおうと思っていて。
そしたらきっと、多くの人が私が死んだことに気付いてくれて、
私の存在に気づいてくれるような気がして。
それを手放すのが怖かったのです。


まだまだ死にそうもないのに、バカみたいだけど。




だけど、
私が今まで深く、浅く、関わり合ってきた人たちの死を、
もし私が知ることがなかったとしても。
私は、日々のいろんなことを通して、その人たちのことを思い出している。

ある場所を通って思い出すあの人、
この曲を聞くと思い出すあの人、
花火を見て思い出したり、
あるニュース記事を見て思い出したり、、
ホントに日々のいろいろな場面で、私は、きっともう会うことのない彼ら彼女らを思い出しながら生きている。

その人が今生きてるか死んでるか、元気かどうか、幸せか苦しい中にいるか、
そんなの全部わからないけど、わからなくても、
もう会えなくても日々ふわっと私の心に顔を出す。



だからきっと、私も。
誰かのふとした瞬間にフッと思い出されることがあるだろうと思う。
嫌な思い出として思い出してくれてもいい。

それがあると思うだけで、もう死んだとか生きてるとか、そんなこと知ってくれてなくても十分な気がした。



そんなふうに思えたから、私はFacebookを辞めた。
大切な人とはいくらでもまた繋がることができるし、
もう2度と繋がらないからって、あんなに近づいたあの日々が嘘になるわけでもない。

離れてしまうのは悲しいけど…

離れてしまった物も人も、全部私の一部になっていると信じてみたい。
そして私も、誰かのほんのひとカケラになっていると信じてみたい。




辞めてみたら、とても穏やか。
まだまだ、人からどう思われるかばかり気にしてしまうしょうがない奴だけど。。
「いいね」は人にねだるんじゃなくて、自分で自分にしてあげられるように頑張ってみようと思います。





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この前の日曜日、まだ緑が多かった。