それで終わりじゃないでしょ

はらぺこあおむしのごとき私の齧り跡を並べています

自分の感覚への自信のハナシ

私がずっと共に生きてきた、ある感覚について書いてみたいと思います。
これは人に伝えることがすごく難しいので、意味の分かる文章にできるか定かではありませんが。

私は自分の「症状」や「苦痛」に対する自信が全然ありません。
頭痛とか腹痛なら、今自分にそれがあるか否かはわかります。さすがに(?)
ですが、心臓のことに関していうと、、全然自信がないです。

もちろん「私自身が心臓に関してなんら大きな症状も苦痛も無く生きてこれた非常にラッキーな人間である」という側面が一番大きいのだとは思います。
ですが、フォンタン回路の圧も高めでチアノーゼありの時期を長く過ごしてきたけれど、それに対する「症状」や「苦痛」を表現する言葉がみつけられませんでした。
「痛い」訳でもない、「だるい」っていうのは精神的な?怠惰な状態なだけかもしれないし、「息苦しい」っていうのはピンポイントでたまに感じたとしても呼吸ができなくなるわけではないし、「頭痛」はあっても無くても同じように動けて仕事もできるし、「倒れ」たことは一回きり…。
なんとも表現できない自分にしかわからない何かを、「しんどい」「ひぃ」「ヤバい」「眠い」でやり過ごして来ました。そして、それでも自分は死なないことはわかっているから「苦しむ」には値しないような気がずっとしていました。


私が救急外来に行くことができたのも、「脈が160くらいあるっぽい」という正確には数えられていないにしろ一定の客観性を持った事象が起こったからでした。その時の主訴は「不整脈」。客観的だから伝える事ができました。

再手術の後、一般病棟に戻ってから友人たちとLINEをたくさんしました。その時体調が悪い人が多かったようで、「風邪が何週間も続いている」「調子が悪い」「腹痛」「気分が悪い」といろいろな訴え(?)を聞きました。
私は、、、いや、でも病院にいて常に医療者に守られながら過ごしているんだし、、術後の痛みは当たり前だし、それにしてもめちゃくちゃ順調なんだし、、、と思うと、私の心臓手術は友人の風邪よりもチョロいものなのではないかとさえ思えました。


つまり、自分にしかわからない「症状」「苦痛」に対して、「今自分はそれを感じているんだ」という自信というか確信というか、そういうものを信じることができる周りのみんなはすごいなと感じるのです。
私には自分にしかわからない言葉にできない何かを「症状」「苦痛」とみなすことがとても難しいです。



こういうことを人に伝えるのを試みても、
「人の痛みはわからないよ」等と言われます。


そうなの。わからないの。 
だけどそのわからないものを、自分自身はわかって信じてあげられる人たちがいる。だから言葉にできるんでしょう?



私はそれがきっとうらやましいのです。
私は、自分が「生まれつきの自分で生きていること」を苦しむべきではない、私には苦しむことは許されていないというような感覚があるからです。

だけど、苦しんでいることをうらやましがるなんて…と思われることでしょう。

私はきっと本当の意味での苦痛を味わったことは無いんだと思います。


いつか私にも苦しむことが許された時、この自分の戯言を後悔するかもしれません。



***







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高尾山に行ってきました。

弱っていたころ、高尾山を登るのが夢でした。

モリモリ元気過ぎる今、リフトの地点から山頂までルートを変えて登って下りてきました。
最高でした。


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先ほどの戯言は置いておいて、今自分へ「大丈夫」という自信がめきめき戻ってきております。
無理しても大丈夫な実感があります。
というか、以前の感覚での「無理」は今の私にはもう無理ではないのかも。

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ミヤマカタバミ と ナガバノスミレサイシン ..かな?


大切な時間としてもったいぶらずに自分を動かして充実させたいです。