それで終わりじゃないでしょ

はらぺこあおむしのごとき私の齧り跡を並べています

誰にも言えないことはどうすりゃいいの?

久しぶりにブログ書いたら“出したいモード“になってしまったのでまた書きます。
人には言わないけど、わりといつも思ってしまうことを。


私基本的に罪悪感をいつも持っています。

体調が悪ければ、「迷惑かけてごめんなさい」。
元気でいなければ!といつも思っているけど、その裏で「私はのうのうと元気でごめんなさい」もいつも思っています。
人の病気とか不幸がとっても辛いのです。
それは優しさではなくて、“誰かが辛いと、恵まれた私が責められる“とどこかでずっと思っています。
子どもの頃、入院中に一緒に遊んだ子が死んじゃったり、「あの子はあなたより大変なのよ」などと言われた経験が深く染み付いているんだと思います。


昨年12月の心臓手術は「成功率90%、つまり10%は亡くなる」と先生に言われ、でも私は悪運が強くてタフだから全く死ぬ気はしなかったのだけど、一方でいつ誰に何があってもおかしくないと思っている私でもあって、だから、エンディングノートを書きました。
書いてみた感想は、「財産が無い者にはあんまり意味がないかもな」(笑)

私、そもそも今死んでも全然よくて、それは“後悔がないほどにやりたいように生きている!“っていうようなかっこいいものでもなくて、“人生全てに後悔しながら悔し涙流しながら今死んでも、それはそれで全然いいかな“というような感覚なのだけど。
ちょっと死について考える機会があったことも手伝って、死生観が行きすぎちゃってる気がしないでもないのですが。


小中学校の同級生が「癌で余命宣告された」と、「まだまだ死にたくない、娘の成長を見届けたい、絶対死にたくなんかない」と、SNSで吐露しているのを見てしまったことがあって、日頃から付き合いがあるわけではない私なので「いつでも話聞かせてね、気が向いたら連絡ちょうだいね」とコメントすることしかできなかったのだけど。
私にはこんな切実な生への執着が無くて、たいして生きたいとも思ってない私はたくさんのコストを食い潰しながら生きていて、こんなにも生きたい彼女は死んでいくのかと思うと苦しくて。

つまり、私は「生きていてごめんなさい」といつもうっすら思いながら生きています。


術前に、「たくさんの人の力を借りて寿命を伸ばしてまで、私ってなんで生きるんだっけ?って思ってる。」「でもたくさんの人がいろんな面から考えてくれてサポートしてくれてホントにありがいと思ってる。」って友人に言ったら、
「生かされてるね。」「生かされてるから、生きたら?」って言われました。
そうだな、生かされてるんだな、と思うのだけど、たまにとても苦しいです。

なんで私はのうのうと生かされちゃってるのだろう、私はまだ死ぬことが許されてないんだ。
こうやって手厚くサポートされて生かされてるのって、何かの罰ゲームみたい。

こんなことを思うことが増えました。

逆にこんなことを思う自分を罰する気持ちは減りました。
こんなことを思ってしまう私も私で、ずっと一緒にやってきたのにいないことにしたらかわいそう。
馬鹿みたいな自分と仲良く泣いたり笑ったりしながら生きるしかないと思っています。

こんなことを考えてるけど、希死念慮があるわけじゃなくて、もはや義務とも思える「生きる」をやり遂げなきゃいけないんだと思っています。

そして、私が生きるにはいろんな支えが必要で、それが仕事だったり友人だったり家族だったり、あと好奇心だったり。


だから、今の私は「やりたいことをするために生きる」というよりも、「生きるためにやりたいことを見つけてする」という感覚です。
で、全然やりきれなかったよ悔しすぎる!!と思いながら死にたいのです。




ポンキッキーズ体操/“歩いて帰ろう”