生きるとはリスクを負うこと
今月の初めにメンタルをえぐられる出来事がありました。
詳細を書くと長くなるしなんかちょっとつらいので書きません。
相手もあることですし。
まあ具体的に言うと、私の病気とパンデミック下のリスクの話です。
参照
harapekoikko.hatenablog.com
いい歳してもう2度と立ち直ってやんないと思うほどには落ち込んだのですが、
いい歳なので(?)気を持ち直して妥当な落とし所を見つけて、
気分上げて毎日を楽しもうと思って日々やってきました。
実際図太いんで、まあ大丈夫なんですよね。
今は病んでませんし、普通にお菓子食べて腹出てきたのを気にしたりしています。
明日からも妥当な選択をしながら普通に生きます。
なのですが、今日友人にこの話したらなんか蓋開いてしまって。
というかずっとずっと片隅では考えていたことを、無かったことにできない気分になって、今書いています。
(一般論としての公衆衛生的な疫学的な話は、前提として私なりに理解しているつもりですが、ココでの軸は個人の、個体としての話になります。)
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リスクって何だろうって思って。
ずっとずっと考えていたのだけど。
たとえば緊急事態宣言が終わって街に人が増えたら、リスクも増大すると思う。
感染するリスク、重症化するリスク。
感染リスクが増えるからには、重症化リスクが高い者はより一層リスク管理しなきゃならない。
と思われる。正論。
だけど全く健康な人だって、感染して重症化して亡くなるリスクはある。
確率が低かったって、亡くなった人自身には結果は100%でしかない。
そして確率が高かったって、私はただのうのうと生きている元気な人。
生きてるからには生活したい。
少しは役に立ちたい。
“活動すればリスクが上がるから活動してはならない”というのなら、
生きることって何なのだろう?
生きる目的が “死なない事” になってない?
それって死に支配されてて、もはや生きてないんじゃない?
リスクを減らす努力はもちろん必要。
だけど、確率はゼロにはならない。
事故のリスクがあるから、飛行機に乗らない、車に乗らない、自転車に乗らない、家の外に出ない。
家の中でもケガするリスクがあるから歩かない?
食中毒のリスクがあるから食べない?
だけど家でじっとしてたら血栓症になるリスク、食べなければ死ぬリスク。
どこまで行っても絶対にリスクから逃れることはできない。
安全なのは「死」だけ。
死ねばもうリスクは何もない。
生きることっていうのは、不確実性を受け入れることだと。
私自身は気をつけた上で万が一何があっても受け入れるつもりしかない。
1万分の1の確率引き当ててこの心臓で生まれてきたんだから、
今更「どうして私が!?」なんて発想無いよ。
誰かには当たるんだもん。あ、私だったんだなーとしか思わないよ。
でもその事で人を傷つけるのはつらい。
「ハイリスクのくせに無責任な行動しやがって!」と非難されるのもつらい。
私のリスクなのに、私のものじゃないみたい。
結局私が受け入れなきゃいけないのは、病気になるリスクじゃなくて、人に失望されるリスクなのだ。
今回みたいに。
これ、けっこう私には荷が重い。
あーー生きるって大変だな。
でもそれ背負って生きなきゃいけない。それ背負って生まれたんだから。
ゼロリスクに逃げてはいけないのだ。
***
リスクって何だろうって調べてたらさ、ウィキペディアでこんな記載を見つけた。
語源であるラテン語の「risicare」は「(悪い事象が起こる可能性を覚悟の上で)勇気をもって試みる」ことを意味する。
そうか、リスクって勇気のことだったんだ。
*リスクといえば、大好きすぎるこの映画
主人公コナーの兄ブレンダン(超絶かっこいい)が
「Rock n Roll is a risk. You risk being ridiculed.
(ロックンロールはリスクだ。嘲笑されるリスクを負え。)」と説く。
やっぱり「勇気」だ。
生きる=リスク=勇気 なのだね。